アートが好きという告白
目に見える世界を切り取るのは、そこに意図なり思考なり、誰かしらの存在があるからで。
その人がいなければ、その意図・思考は存在しないのと等しい。
誰かの頭の中は覗けないので、感じたナニかを言葉、歌、演奏、写真、アート・・・etcで外部に残してくれて初めて存在を認知できる。
何かしら作品がないと、そんな見方があったなんてわからないんだよね。
だから、様々なアートに愛おしさを覚えて心惹かれるんだなあ・・・(*・ω・)
※アートと称しただけでアートとなった事例も、そう称した意図がまた興味惹かれるよねー
絵を見て感じて、あとでその人となりを調べてみて、作品と照らし合わせて、「あーー・・・」みたく勝手に答え合わせ?解釈するのも楽しくてスキです。
絵も、
- なんでこの題材を描いたのかなー
- 例えば自画像なら、「ひたすら写実に走ったんやね~」とか、「なぜそこを青で描いたんだろ??」とか
- この作品の後、作者の周りにこんな物事があって・・・からの、この作品なんだ―わっけわからん!!けど、何故か好き・・・なんでよ!!
とか想いを馳せるのも好き。
なーんも考えずに、「あーーーーきれーーーーー」みたく、お風呂にでも入るように、作品の綺麗さに浸るのも最高♪(*´_`)
カラフルな色合いだとか、モチーフだらけの訳わかんなさだとか、心に浮かんでははじけて消える感情が「在る」ことを感じるのがまた幸福・・・熱情を感じる作品を前にして言葉もなくなるのも幸福・・・
※関係ないけど、passionって言葉に出会ったときは、日本語では出せないニュアンスを一語で表すとは「やるなあ!!」ってときめきました。これだから外国語を知るのってスキ!
秋はいいよねー、秋の日差しって何気ない視界がアートになる。
黄色みがかった日差しが目に見える世界を照らすだけで、「あー!綺麗・・・!!」って秋はしょっちゅうなるんです。
空とかさ、もうほんっとに綺麗です。雲の掛かり方だとか、白と青のまばら具合だとか、さらには吹いてくる風の心地よさと相まって、もう幸せすぎて><。
しかも、今の時期ってキンモクセイが香ってくるじゃありませんか。
最高だよねー、香り物苦手だったんだけど、キンモクセイだけは子どものころから大好きです。
図工の時間に好きな絵を描くってのがあって、おっきなキンモクセイの下で、大好きな香りに包まれながら写生したのが思い出されます・・・。
キンモクセイの香水ってないのかなーって探したけれど、やっぱり本物とは違うんだよねー。あと、キンモクセイの香りを活かした中国茶なんかもあったんだけど、香り高いんだけど、本物のみずみずしい香りはやっぱり今だけです。
キンモクセイの香りをたどって、「あ、ここにいた!」みたく探し出す楽しみも秋だなー。
あ、空の話!
空だけじゃなく、中途半端な、自然の中じゃなくて草っぱらに住居みたく、コンクリートに適当に植物がかかってる感じの適当感もまた好きなんだよね。
人工的な建物は建物で、人の気配があって、人々が生活していたころを想像してみるとまた面白かったりします。
大自然だけがピックアップしなくても、大都会じゃなくても、その中途半端さもなんというか『身近な感じ』がまた愛おしいです。
この感じているものを何とか捉えたくて、シャッターを押してみるんだけど、結果の画像を見ると、「私が感じたのはそうじゃないんだ・・・!!」とちょっぴりがっかりする。今、感じ切るしかないんかな。なんとかできないかな。
そう試みるところにアートが生まれるんだろうなって思った。
そのね、心の存在が私はいとしくてたまらないんだよね。
知りたくなるの。
正解がないアートの許容性、受容性みたいな自由なところが、心落ち着くってのもある。
つい正解を探しちゃう。答えを求めちゃう。
そこから解放されたいのかな?(*・ω・)ワカランケドモ
ただ、その正解探しの思考ってけっこう身体にしみついているんだよね。まあ必要だからってのもある。
美術の時間に、美術が苦手な友達Mがいて、確かポスターを描くって課題だったの。
私「まだ描かないの?」
M「何を描けばいいか・・・」
私「なんでもよくない?」
M「私センスないから・・・」
私「センスがあるかどうかはいいから、何か描いたら?」
M「いや!無理!描けない!」
みたいなやり取りをした時のことを思う。
で、私も作曲を試みた時があって、Mはピアノをずーっとやってて、
M「早く弾いてみたら?」
私「無理、何から始めたらいいの!」
M「いやなんでもいいよ」
私「いやでも!!」
みたいなのをやったことがあり。
私は美術、Mは音楽を少しばかりわかってるから、きっとスタート出来て、お互いわかんない分野だと、『間違えたらどうしよう!!』=正解があるという前提に立って戸惑ったのかなーなんて思ったり。
きっとこれが正解っていうのが必要な場面はいくらでもあるけど、正解・不正解のルールをはずせる自由さを持ってたいなあ。
だから、日々の生活の中で、「あー、きれー!」って思える瞬間があるってほんとしあわせだねえ。
もう額縁持って歩いて、その綺麗だと思った瞬間に額縁を通してみればアートになると思う。
その綺麗だと思って残した瞬間にアートだ。
アートという言葉を乱用しすぎて現代文なら定義をすべきところだろうなー、まあいいや!(!)
昔は写真って自分が映ってなんぼだ!って思ってたけど、今は切り取る「視点」の存在に自分がいるんだなーって思って、ただ景色を撮るのもスキになった!
一人でアート見に行くのもいいけど、感想言い合いたいよう><
自由に個別で見て回る⇒からの、集合で感想言い合う、みたいなことがしたい。
映画もそうなんだけど、見終わった後、見て得た感覚をそのまま言語化したい。LIVE感を味わいたーい!