「書く」ということ、モーニングページと出会って
モーニングページの存在を知ってから、前よりも機会を作って、手帳やノートと向き合うようになりました。
モーニングページというのは、ジュリア・キャメロンさんの「ずっとやりたかったことを、やりなさい」という本に書かれている課題の一つです。
なんだったか調べてる時に、モーニングページを知り、ブログでぽんぽんと言葉を載せるのが楽しかったその頃に親近感を覚えて、本自体を読んでみたりしつつ、いっちょやってみるか!とトライしてみました。
★モーニングページとは
朝、起きて1番にノート三ページになんでもいいから書く、というもの。
ノートの大きさは忘れました、てへ。
私は小さいノートと大きいノート、中ぐらいのノート…と連れ合いがたくさんあるので、気ままに書きなぐっています。
もともとなんでモーニングページに興味を持ったかというと、まず、響きがかわいい〜♪っていうのと、朝からノートに向かうっていうのがちょっとCOOLだなーって思ったから。
さらに、「ずっとやりたかったことを、やりなさい」という本のAmazonレビューを見たところ、『アーティスティックな女性にぴったり』という表現があって、
まさに私…!?゚+.(ノ*・ω・)ノ*.
となかなかノー天気な勘違いをしたのがキッカケであります。
読んでみると、Amazonの感想がちらほら頭に浮かんで、「確かに!確かにね!!」って思う場面は多々ありました。
例えば、宣誓ページだとか訳し方が固いのか、そういうもんなのかわかんないけど、確かにちょっと怪しく見える。
それに、やっぱり西洋ベースだからか神という単語がかなり出てくるので、こう日本語で読んでみると、ニュアンス的に難しいなあ~って。なんだろ、cultureとして見てしまえば、そこまで違和感はわかないんだけど。
モーニングページというのは、あくまでワークのベースであって、おおよそ三ヶ月でしょうか。
たしか週ごとに問い掛けがあって、答えるごとに、自分のココロと向き合っていくこと。
アートな心を目覚めさせ、遊ばせることが目的のようです(私の解釈!)
この本の原題は、「The Artist's Way」なので、自己啓発というジャンルだとちょっとなあ、という。
スピリチュアルというのもなー、そういう意味だと創造性と向き合う入門みたいな印象です。
創造性っていうと、「センスないから…!」と肩に力が入りそうだけど、
ノートへなんでも書いてみる、
それだけで自由を感じられるというのが、私はこう「人間は考える葦って言うもんなー!!」って、こう、ワクワクしちゃいました。
するよね!?しないかな!?!
さらに、親近感が湧いたのは、この思いつくままに書くという行為が、私が調子よくブログを書いてるのと同じ態度?心持ちとかぶって!
だが、しかし、「モーニングページは他人から見たらつまらないから公開しなくていい」みたいなことが書かれてて、
「 ちょ!!私、思い付き、めっちゃブログで公開してる!!」
と軽くショックを受けたことをよく覚えています(笑)
で、書いたらいいことあったかというと……よくわからない!!
宝くじとか別に当たってない!
ただ、頭がすっきりする。
ぽんぽんと言葉を置くって気持ちがいい。すっきりする。
あと、書いてるうちに楽しくなって来る。
あ、これもしたかった。そいや、あれも興味あったんだって気づくきっかけになる。
普段から整理できてる人は関係ないんかな(*・ω・)
ただ、私のやり方はゆるゆるでして。
というのも、朝一番にノートと向き合う時間を確保するのが大変…!!
ねむいよ!(*ノД`)ノ
なので、数行の朝もある…
朝ごはんもぐもぐしつつ、眠い…と思いながら、なんかを書く。
めんどくさい時は落書きを書いたり、顔文字を書いたり、ハートを書いたり…
書いてるうちに笑えて来たりします。なにしてんだ、私!みたいな。
まあ「鏡の前で一人でピース」してみたり、「朝っぱらから部屋中におはようと言」ったり、「隙をみてブランコ乗ってみたり」する私なので、今更怖いものなんてない!いや、周囲の目は気になるが!一人かどうか確認するのはとっても大事。
休みの日は、「朝って、私が思ったら朝なんだ!」とゆるくやってます。
最初は『休日だから、書くのいいかな〜』って思うんだけど、書かないとモヤモヤっとして。
それは、習慣が欠けたからっていうのじゃなくて、いっぱい浮かんでくる思考に心が霞んじゃう感じで。
思考の一つ一つはたいしたことはなくても、塵もつもればというように、泡もあふれすぎれば、水の姿さえ見えなくなる、という感じ。
澄み切った心、それは純粋さではなく、ただ、自分を感じて向き合える状態なんじゃないかな。
その心地よさを知ってしまうと、ついついノートにペンを走らせてしまう。
この本は、2001年に書かれたものだそうです。
人はそんなに変わってないのかもしれないなあって。
源氏物語を読んで共鳴することがあるんだもの。枕草子を通してみる景色に感動する心はかなり近しい隣人のようじゃないかな。
そんなことを思いつつ、15年前にこの本と出会った人はどんな今を過ごしているんだろうと、心だけタイムスリップしてみたりして。
あと、寝る前にもいいことノートを兼ねて書いたりもします。
あんなことがあった、こんなことがあったって楽しくなってきて、一人笑って眠りにつきます。
逆に、もやもやしている時に、・・・素直に負けを認めたように言葉にしてみるんです。
私は、こんなにイライラしている。かっこわるい。情けない。もうイヤ。こんなところがダサい。こんなところが可愛くないって思ってる。
でも、こうやって言葉にできている。前はこんなことは出来なかった。
今、なんでこう思ってるかっていると、ここが嫌だから。こんなところを変えたいから。
こんなところを変えられなくても、いい気分でいればいいらしい。ほんとに?ほんと?
ほんとだったらいいなあ。こうなってくれたらうれしいんだけど。まあ、なんとかなるかな?ケセラセラって言うもんねえ。
いえーーーーいヽ(*´∀`*)ノ.+゚
みたいな結末になります。
書くときに気をつけていることがあるとしたら、主語が誰かっていうこと。
他人はどうにもできないってことを飲み込んで、「じゃあ、私はどうしたい?」っていうことを聞いてみるんです。
気を抜くと、「私」はどこかに消えちゃいます。日本語ってそういうところがよきところでもあるんだけど、自分の心をたずねるときは、主語を意識するといい。
それと、否定語にしない。肯定に言い直してみる。
諦めない、じゃなくて、続けてみる。とか。
嘘をつかない、じゃなくて、誠実で在る、とか。
嫌いなことばかり考えついたら、じゃあ、なんだったら好きなの?ってところまで行きついてみる。
否定のままで終わらない。
書きだしてみると、そのまま階段を下るように、思考の奥底に沈んじゃうことも合って。
一時は、すべて書きだせばいいんだって思っていたけれど、そうでもないと思う。
心は川の流れのようだなって。
同じようで、絶えず流れ続けていて、じっとその流れを眺めているといつも同じに見えてしまうんだけど、どこからか流れてくる流れをつくる水は、はては、その水のみなもとは、決して同じじゃない。
心は一つだ。
でも、その湧き出てくる源はいくつも、いくつもあるんじゃないかな。
私、人は多面形みたいだと思っていて。
いろんな形の面が合って、そのどれかの面がぴたっと合うと、まるで貝殻の一枚を見つけたかのようにうれしくなっちゃって。
その人が唯一みたいに見えて・・・、でも向きを変えれば、また誰かとぴたっと合う事も合って。
その人の柔軟さ次第で、色んな人と合わせられる人もいて。
逆に、その強さゆえに惹かれることも合って。
合わないと思っていても、裏面だったり、ある面が強い衝撃を受けてへっこんだりして、後になってくっついたり。
そんなことを繰り返して、最初は経験のなさゆえのまんまるさが、削り削られた結果のまんまるさに戻って、時を経てみると、再び元に戻る、みたいな。
あ、だから、心を川と言ってみたけど、こんこんとわき出る感情の泉をもっとあふれさせるために、川の流れを邪魔しないように、思考という石を選んでどかしていけばいいのかなって。
で、その思考はね、心を行きたいところに流すために置きなおせばいいって思うんだ。
やりたいことへの道筋だったり、何かをスムーズに進めるための一助になるはず。
ひらめきはそのどこかで、いろんな波が重なって共鳴した時に生まれるんじゃないかな。
いつも水どりが穏やかな海面を一斉に泳いでいるのを見て、波と波が重なる瞬間を見ると、それを思う。気持ちと同じじゃないかなって。
ああ、だからね、言いたかったのは、心が自由を感じるためには、重たい思考ばかりをじっとじっと見つめるんじゃなくて、ひょいっとどかしてみるところまでやらないと、どんどん沈むかなって。
あ、こんな重たい石ばっかりなんだって悲しくなるところで終わらないって言う事。
その石をどうするかは、自分次第って言う事。
自分次第、この文字を眺めるだけで心がはずむんです。
はずまない?
スキップしてるみたいな気分になる。
まーとまーら、ない!(*ノ∀`*)
おやすみなさい。よい夢を。