八月九日
英語の聞き取りって、自分が発音できる物じゃないと聞き取れないっていうじゃないですか。
自分の中にないものは見つけられない、ってことかと思ったわけです。
だとしたら、何かを語ることも同じじゃないかなって。
自分がまず知っていないと、話もできない。
今日という日にかつて起こったことに、八月は特にそんな場面があるなと思います。
正直に言ってしまうと、知らないままでいたいんだけど、義務感ではなく、なんとなく、そう、いつもの”なんとなく”の感覚が、「知ろう」という"気"にさせるんです。
興味本位に、長崎、8月9日と検索してみれば、いろんなことがわっと出てきます。
同時に、色んな思想にあてられそうになります。
それが嫌で、触れたくもないなって思いもします。
平和を愛している。
こんな日常がずっと続いて欲しい。
引き寄せ的に言えば、きっと平和にひたすら目を向けるのがいいんだろうなと思うんだけど、でもね、なんだろうな、自分にないものは語れないんですよね。
平和を語っていればいいんだけど、なんだろうな、難しいんだろうけど、フラットに事実に目を向けられたら、と思う。
歴史を学ぶって難しいなって思う。
一つの事実でも語り口でいかようにも変わってしまうから。
言い方だってさ、順番変えただけで印象変わるんだからさ。
こんなおおごと、・・・・・・・そりゃそうだよね。
主観で世界を見る。誰しも。
その誰しもを大規模に巻き込んでしまうんだから、そうなるよなあって。
ただね、色んな問題が出てきて、それを議論するのって本当に疲れて、面倒になってしまうんだけど、なんだろうなあ、シンプルにできることをする、それは続けたいなあって。
無関心ではなくて、必要以上に感情的にならず、かといって心を失わない論理性を持って、自分の視点で事実を整理しておくこと。
誰かの言葉は主観だ。だからこそ、偏っているだろう。でも、その偏りがなんだ。それが"ひと”だ。生身の声だ。
受け取った物を尊重しよう。うん、敬意は大事だ。
あと、自分の”芯”を持つことが大事だ。
かといって折れない、受け取らない、はねつける、そういう堅さではなくて、しなやかに受け止める。
そんな視点もある、
見方もある、
現実に、在った。
キャパシティを超えると溺れそうになるから、そういうときは深呼吸して、いまここにいることに浸る。
主観であっても、想像力がある。
自由はいかようにも変容するから、どこに向かうか、どこにいるか、心の有り様は自分で舵を取る。
心を向けよう。
感謝と、祈りをこめて。