内なる自然
心をどうにかしようとしてもどうにかならないんだろうなあって最近思う。
こう、植物みたいな。お花を育てる、みたいな。
どんなに日差しから遠ざけても、暗室に閉じ込めていても、絶対に光を求めて芽が出てくる、みたいな。
ほーんのちょっとの光でも、少しでも届くように手を伸ばす、みたいな。
無理なんだよ、あなたはここから出られないんだよって言い聞かせても、そんなのかまわず伸びていく、みたいな。
心ってやつはどうしても希望を求めて、いや希望が絶対あることがわかってんじゃないのかな?じゃなきゃ悲しくならないよね。何か出来事があった時、悲しくなるのは、その反対=うれしいことが存在してるって知ってるからでしょ。だから、今、自分が”ない”から悲しくなるんだよねぇ。
だから、絶望できるってことは、絶望の反対があるって知ってるんだろうなあ。
なんでこんなことを言いだしたかって言うと、そら豆さんを茹でようと思って、あの枝豆状態だったので、その中身を取り出していて、まーーっくらにしてても、この気候のせいか芽を出していて・・・
この子はまっくらでも育とうとするんだなあ・・・なんて思ったんでした。
うん、そら豆からの連想ですよ。もっと高尚なことを考えたいもんです。笑
でもさあ、心なんてどうにかしようとするから苦しいんだもん。
上手く付き合うっていうか寄り添うもんかなあ?自分なのに自分じゃなくて、でも認知してるの自分だけって、ちょーーーーレアなもんだなあって思います。この感覚、誰も持ってないんでしょう?この感覚ってようは、今、私が感じていることってレベルで。
いやいやっていう反論も浮かぶけど、究極的に区切っちゃえば、今この瞬間で重なるってないもんね。
だからライブとかある種の空間で大人数でいて同じ何かをするとトランスしちゃう、というか共鳴しちゃうのかも?
どっちなのかなーって思うけど、たぶんどっちでもいいんだろうな(てきとう)
ただ、心が自分じゃどうにもならないって意味で自然であると定義したとしても、それは何もできないってことと同義ではないんだろうと思う。
植物だとしたら、私がどんなに頑張ったって、上に伸ばせないようにできないんだろうけど、その上に進む方向性をうまいこと誘導してやれるんだろうし。
盆栽・・・とも似てるのかなあ、そのへん、心の取り扱いも、こう西洋と東洋の庭の作り方?というか自然かなあ、なんかこうリンクするなあって。
そいやこないだ畑で菜の花いっぱいで、あれ、たぶん、同じ種類ばっかり育てた後に、こう畑を休ませるために植えてたのかなあって思ってたんだけど、やっぱりそうなのかな、ぐっしゃぐしゃにされていて。
お花咲いているのに、土とまぜっこぜになってて、「そういうもんだよなあ・・・」ってちょっとせつなかったんだけど、その1週間後かなあ、そばを通った時にまた咲いてたよ、お花。
横に寝かされた状態で(なぎたおされたというべきかな)、それでも伸びた先は青空に向かってた。
で、また黄色い花が咲いてた。90度みたい。途中から起き上がって咲いてるの。
ああ、咲くんだね!!
って嬉しかったなあ。
なんていうか、心が自然だとしたら、たぶんお水(栄養?)と青空と休息があれば、また花が咲くんじゃないかな??(*・ω・)
ほっといても、心配しなくても、むしろどれかが欠けてても、案外行けるんじゃないだろうか。根っこが、しっかりしていれば。
心で言う根っこは、きっと自分を信じられるってところじゃないかなー。
心のありかを知れるのは、どうしたって”わたし”だろうし。
私があると言えば、「ある」ってことだもんね。
たまにお天気雨の時、傘をさすか迷う時。
自分にとっては雨がある、誰かにとっては雨がない。
それ、似てるよなあって思ったんだよね。
雨が降ってるって決めるのは、私だよなあみたいな。
通じる?笑 通じないかなあ、この感覚。
あとね、枯れたっぽい幹なのに、一部の枝だけめっちゃ葉っぱがわさわさしてたのを見かけたの。
枯れてるーって思ってたけど、あ、いけるんだ!って驚いて。
心がダメになったーってなっても、また咲くし、伸びるし、葉っぱいっぱいになると思う。キセキや魔法じゃなくて、事実としてそうじゃない?って思っちゃう。
心はどうしたって前を向いて上を目指すなら、私はその心をどこに連れて行きたいんだろ?一言でいうならしあわせ!なんだろうから(笑)、何してハッピーがいいかなー?って感じ?
おなかすいた→何食べたい?みたいな、何食べてもおなかはいっぱいになるんだから、どの味を楽しみたいの?みたいな。
あ、心と自然の話からそれた!
ふっふふー、素敵な夜を!